昭和51年4月3日 朝の御理解 
                    末永静行  №51-049


御理解第58節
「人が盗人じゃというても、乞食じゃと」

神様が人間氏子に対して、さあ、私が後ろについておる、私がちゃんと見ておる、さあしっかり信心の稽古をするんだよというふうに感じますですね。どんな事があっても、どんな場合であっても、どんな苦しい事があっても、後ろに私がついてるんだと、さあしっかりその事を通して信心の稽古をするんだよと。その事を通して信心の稽古をさせてくださる親心、神様のいわゆる心情を思います時に奮いたたずにはおれない、そういう気が致します。
これは人間の関係だけのことじゃありませんね、様々な難儀な場合であっても、その事を通して信心の稽古をするんだよと、いわゆる、信心の帯を、どんな場合であっても信心の帯をしっかりしときゃ大丈夫だと、しっかりその事を通して信心の稽古をするんだと。
昨日は高橋さんのところの謝恩祭でいつもながらきちっとしたお祭りでした。本当にこのきちっとというのはもう全てがきちっとですね、きちっとしたおかげ、例えば、もうあれよりもうちった何人かでも多いならご直会ならご直会に座るところがない、もうきっちりした事といったような感じ、そういう事の中にも、まあ、感じましたね。
ご神前に出らせて頂きましたら一番最初に頂くのが、あそこに木彫の立派な大黒様が奉斎してあります。その大黒様がね、高橋さんがちょうどはめておられるような近眼のものがはめる、めがねをかけておられるんです大黒様が、おかしな御心眼だったんですけどね、私はその大黒様がかけてござるというところにですね。これは私が近眼だなという風に思いました、次にはこれは高橋さんでもあろうかと思いました。
それから、御霊様の方へ移らせてもらって、御霊様のほうで御用させて頂いたらもうたくさんな御霊様が皆この近眼のめがねをはめちゃるとですよ。そして、結局どう言う事かというと、もうまずはほとんどの人がね、いうなら、信心があっても皆が近視眼的な、いわゆる、目先目先のおかげに終始しておるということ、もちろん信心のなかった先祖の、例えば親族家族の御霊様達でもです、とにかくただ立身出世をすれば、儲けだしさえすれば、ただ自分が一代で幸せになればという事だけにしゅうちをあげておるという事なんです。だから、これは高橋さんところの御霊、これは高橋さん、いや私というだけのことじゃない事になりますですね。
私共もずいぶんそんな近視眼的ではない、ずいぶん遠大なところに一つの信心の焦点をおいて、いうなら、私がいつも申しますように、お道の信心はどこまでも生神金光大神、いわゆる、生神を目指してからの、という訳なんです。だから、ずいぶん遠大なところにおいてあるようですけれども厳密にいうて、やはりその日その日のおかげを追うておるような事ではなかろうかと、例えて言うならば人が泥棒と言うても乞食と言うても、泥棒しらねば良し、乞食と言われてももらわんどけばよしといわれるように、例えば高橋さん当たり、あれだけたくさんな従業員がおります、それに、まあ、幹部の主だった社員の方達の中に幾派に分かれておってね、やっぱり大きくなる、大きくなるほど何々派といったような、まあ、いうならお父さん派と高橋さん派といったようなものがあるわけです。
それで根も葉もないような事を取り上げして、取り上げて取りざたをする、取りざただけならよいけれども、それを直に高橋さんのところにもってくる、もう侵害も侵害も、私がお届けをさせて頂きよって私が腹の立つような感じのそんな事がちょいちょいあるわけなんです。第一になら三福株式会社、三福寿司という、その、主だった幹部でありながら社員でありながら三福が繁盛をする事を願っておるのか、繁盛せんほうが良いと言うておる事ではなかろうかといったような事を平気で言うたりしたりするような人が中にあるわけです、だから、本当にそこをつまばらかに、その、まあ、言うなら、言うて聞かせてもよい、首にしてもよいといったような感じがするんですけれども、いつも神様がそう言う場合、高橋さんあんたが大きくなる意外にないよと言うのが、そげんなんこつ言うならそんなら首にせんのうといったような事はいっぺんも頂いた事はないです。そこで、なら今日の御理解を頂くと高橋さん、その事を通してもっともっと信心の稽古をするんだよと、もっともっと改まるんだよ磨くんだよと、後ろには私がついておるというようなものを感じますですね。
宮崎の方から送ってきたというたくさん宮崎かぼちゃがいっぱいお供えしてあった。そのかぼちゃと竹の子がどっからかお供えがきとった、その竹の子とかぼちゃがこう盛り合わせて大盛りに出してございました。横には卵が一台、生卵ですね、ですから、私はその事から皆さんにお話を聞いて頂いたんですけれども、とにかく信心は大きな信心が良い、迷い信心でいかん、一心と定めいと仰る、と言う事はです、皆が大きなおかげを頂きたいと願うておると言う事なんです、ですから、その為には大きな信心をしなければと言う事なんです、そうでしょう。
私はこの大きなおかげを頂きたいというのはやはり目先の信心だと思うんです実際は。けれども、それをもって信心の稽古をさせて下さろうと、氏子の例えば欲望というか、願いと言うか、ね、そう言うものも満たしてやりたい、そういう願いも叶えてやりたい、ね、その為には大きくなれよと、大きな信心をせろよと、ね、しかもね、それは一心と定めなければ駄目だぞと、ね、(          )おかげを頂くためには大海のような信心をしなければならないぞと、そんなら大海のような信心とはです、どう言うことがあってもびくともせん、どういう汚いものが流れ込んできても平気で受けていく、ね、第一会社の役に立っておるのか、役に立っていないのかかえって邪魔をするような在り方の人があるに致しても、ね、黙って受けていけ、大きくなる意外にないぞ、大きゅうなれ、大きゅうなれ、後ろには私がついておるんだと言いながら信心の稽古をさせて頂いておるという気が致します。
私は昨日の御理解を頂いて大変難しい、みやすう、お話はみやすう説かせて頂いたんですけれども、その根底になるものはもう大変な難しい、しかも信心のギリギリのところを焦点とした信心でなからなければならんということを神様が力説されたと言う感じがするんです、ね。
例えて今、大黒様がめがねをかけてござると、近眼のめがねをかけてござるということなんかの親先生はもう大変な事です、ね、だから、近眼的な信心からです、目先目先のことをいわずにです、さーきのことを思えと、先の方のこともいよいよ、先のことと言う事は結局魂の世界のことを思えと言う事なんです。もう、まあ、信心の一番最高ちいうならそこだろうと思うんです。魂の世界の事を分かり、それを信じ、思わせて頂いたらです、もうどんな事をしても本気で魂を磨いとかなければおれんと言う事です、本気で改まりもしなければおれん、磨きもしなければおれん。どういうたくさんな金を使ってででもです、例えて申しますなら、ね、もし魂の世界で本当に喜びの御霊、安心の御霊としておかげが頂けれるなら、現世でその事がもし金で買えることなら、それこそ、山の金を、あっー!、金を山を積んででもです、魂の世界での、いうなら、喜びというか、安楽と言うか、ね、これは本当に信心が分かったらそこになるんです。だから、なら、人から泥棒と言われても乞食じゃというても腹を立てなということはです、しっかり信心の帯をせよという事はです、ギリギリのそこを分からせてたいと言うのが御真意なんです。
目先目先の事を、ね、いうなら、信心をさせてもろうて肉眼をおいて心眼を開かせて頂くところからです、事の真相というものがハッキリしてくる。ね、
私はここんところを昨日頂きながら思うたんですけれども、本当に目先目先のおかげを通して、さぁー目先の事にどう言う難儀な問題があってもです、どういうようなその断腸な思いをする、腹がねぐりかえるような事が起こってもです、さぁー、それでね、信心の本気で稽古をせろよ、そこん時に信心の帯をしっかりしとかなければ駄目だぞとして分かるのはその後に分かるのものは神愛だと思うんです。
はぁー神様があーいう難儀なところを通らせて下さったが、こういうおかげを下さる事の為に、そのおかげの内容と言うものは勿論形のこともありましょうけれども、こう言う事を分からせて下さる事の為にということになると思うんです。そして、段々だんだん先のことが分かって来ると、もう先の方の事はどう言う事が分かって来るか、おかげにしかならんという絶対信が生まれてくるです。すると、もうこの世では問題じゃない、もう本当にあちらで安楽な世界で住まわせて頂くことの為にはどういう修行でもしとこうと言う気が起きてくるのが信心のギリギリのところだろうとこう私は思うのです。
神様はあの手この手をつこうて信心の帯をしっかりせろと、その都度、その都度にさぁーここで改まるんだぞと、さぁーその事をもって磨きなさいよと、さぁーこう言う時だ、しっかり信心の帯をするのはと言いながらです、ね、大きなおかげを頂きたい、為に大きくなりゃならんと一生懸命大きくなる事に勤めさせて頂いておる、それとてもです、大きなおかげを頂きたいからである。
そして、おかげを頂きながら分からせて頂く事はギリギリですね、私共が魂の世界に入って、そして、安心の御霊、喜びの御霊としてお徳を受けれる、いわゆる、あの世にも持って行けれる事の為にあるのです。もうそこに、少し至ってまいりましたらです、もうとてもとても磨かにゃおられん、改まらなければおられない、問題が一つも問題でなくなってくる、こうして、いよいよ力を与えて下さるという喜び、お礼しかないと言う事になってくる。だから、これはもう大変な本当にそこを分からせて頂くための大変な御理解だなと夕べ私は思いました。
おかげを頂きたい、ならしっかり信心をせろ、もっとおかげを頂きたい、そんなら改まれ、もっとおかげを頂きたい、そんなら、いよいよ磨け、ね、どういう苦しい時があっても、さぁーその苦しい問題を通して力を頂くんだぞ、こう言う時しっかり信心の帯をするんだぞと、後ろに私がついておるから大丈夫やってみてごらんというようにです、信心の稽古をその実際の問題を通してさせて頂くことによって、段々分からせて頂く事はです、ね、いうなら、自分自身が段々近眼、ちかめ的な見方から段々遠大なところが分かってくるようになる。ギリギリのところはどこかというとあの世の事が分かって来る、もうこの世の修行とか、難儀とか腹ただしいといったようなものは全然問題じゃなくなってくる、ね、例えばそれぐらいな問題でもし私の魂の、が清められるなら、ね、その事によって魂の世界に入って安心のお許しが頂けれるならば喜びのおかげが頂けれるならば、もうとても本気で本心の玉を磨くことに、改まる事に精進しなければならない。ね。
昨日、高橋さんのところの大盛りのたくさんのかぼちゃの事からです、ね、結局大きな信心とはかぼちゃの信心になる事だということでしょうが。ね、竹の子と言う事は、この寒中に竹の子のあるはずがないのに、親が竹の子を求めるならば、この寒かつにどうして竹の子があるかというのじゃなくて、それこそ、親に孝行したいの一心での事であるから、ね、親に孝行すればこそであるから、天の与えであるかもしれんと、なら雪の竹やぶの中に入っていくその素直さと言うものがです、ね、自分が元来求めておったものがそこにあったというような事のおかげが分かるように、ね。
神様に喜んで頂く信心とはまずかぼちゃの信心、大きな信心だと言う事になります。その大きな信心と言う事を今日の御理解からいうたらです、どんなに人が(    )関わるような事をいうても、いわゆる極端に泥棒だ乞食じゃといわれるような事があっても、ね、それを例えばしっかり信心の帯をして泥棒をしらにゃんよし、もろうておかんならよし、ね、それを、俺がいつ泥棒したかとか、乞食をしたかといったような事ではなくて、いわゆる、かぼちゃになる、馬鹿と阿呆になっていく、いよいよ大きくなっていく、ね、そこに大きなおかげの約束がある、だけではない、段々分からせて頂く事はです、ね、いわゆる、なるほど、あの時に自分の顔を注ぐと言ったようなことじゃなくて、後々になって分からせて頂く事はあれがおかげであった事が分かる時にです、言うなら、私共の近眼的なものの見方から、段々遠方の方が見えてくるようになる、ね、しかもギリギリのところはこの世だけの事じゃない、あの世の事が見えてくるようになる、いわゆる、信じれるようになると言うこと、魂の世界を信じれるように、しかも魂の世界では、いよいよ魂を本気で極めとかなければ、だから、どんなに金をかけても努力しても修行をしてでもです、それによって魂がもし清まるならばです、高められるならばです、ね、しとかなければおられんと言うのが私は信心。
これも昨日、高橋さんのところの神様の方で頂いたことでしたけれども、「昆布とするめ」という事を頂いたですね。昆布と言う事は喜ぶということでしょう、するめと言う事は、いうなら、改まると言う事でしょう、もう、やはりですね、もう私共はそこにかけるよりほかにです信心は。
ところが、私共はです、ね、それが分かり、そうだと分かっとりながらも、やはり体がきつうなったり、いうなら、スランプ状態のような時もございますけれども、そういう時にはしっかり生卵を吸ってから元気づけんというのだと、昨日はたくさん生卵がお供えしてあったから、その事から私はそう申しました。卵どん食べちから元気づけて、そして本気で信心の、いわゆる、本気で信心の帯をせよと言う事だと、いよいよの話しを聞いて頂いたんですけれども、今日の58節からです、ね、しっかり信心の帯をせよ、どんな事があっても腹を立ててはならんと、なら、その問題を通して信心の稽古をするんだよと、ね、そういう時にしっかり信心の帯をするんだよと、後ろには私がついておるんだ、さぁー私が見ておるからしっかり稽古をしてごらんというておられるようなものをこの58節に感じますですね。
                         どうぞ。